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最近は普化(虚無僧)尺八に興味があります
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 「流祖中尾都山逸話集」都山流史編纂委員会編、(株)都山流出版会刊、昭和43年6月10日発行。
 都山流70年史を編纂するにあたり、流内外に逸話を募ったところ沢山の原稿が集まり、本編に収録できず、別に一巻に纏めて刊行された物です。その内、気になった部分を抜き出すと、
 中瀬楸山「中尾家と私の家とは五百米程の距りであった。(略)私の祖父に仕え一番番頭であった通称米松(こめまつ)と云うのが、若い頃流祖ともう一人エチイチと三名で尺八の修行に枚方を発った。虚無僧と同じく或は門に立ち或は尺八の上手に教を乞うた次第であるが、流祖はどこ迄も上手を求めて歩を進められる。遂に米松等は枚方に逃げ帰った。」(101-102頁)
 虫明圭山「過ぐる大正七年(略)種々芸道のお話を頂いていました節、突然かたわらの尺八をお取りになりまして竹調べの後、朗々と吹奏なさいました。それは実に素晴らしい「追分」でした。」(103-104頁)
 前者は残念ながらいつ頃のことなのか判然としないですが、若い頃から流祖の並々ならぬ向上心が伺えます。明治4年の太政官布令により、普化宗は廃宗となり虚無僧は離散しました。明治23年に明暗教会として再興されましたが、流祖の虚無僧修行は、その前でしょうか後でしょうか。
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 尺八の音源を集め始めてから数年しか経っていない。都山流々祖、中尾都山自身は、戦前に人前での演奏を辞めているので、残された音源はSP盤しかない。こつこつと集めて、やっと7枚になった。あと数枚はあるようだが、いかんせん資料が殆ど無いので、集めるとは言っても手探りになるのは止むを得ない。京都の宗家に聞けば分かるのだろうか…。10枚以上あれば、今ならCD1枚に復刻出来るだけの量はあると思うのだが…。
古鏡

 しかし良く出ますね、古鏡。今回の出品者は、割と信頼できるかも知れません。
古鏡?

 今度は「古鏡」でしょうか…。それにしても味の無い尺八です。
明暗尺八通解


 都山は幼少の頃宗悦流を稽古したが、別にきまった師匠につかず、その豊かな天分と努力によって都山流独自の流風をたてた。都山の語るところによれば、少年時代明暗真法流の尾崎真龍について大和、近江方面へ虚無僧托鉢したことも時々あったというから、都山の奏法には、宗悦の流風以外に、これらの影響もあったことと想像できる。
 都山は初め宗悦系のフホウヱ符式であったが、教授の際に、譜を唱える便宜上、現行のロツレチ符式の表記に変えた(都山直談)。(41頁)
 戦前筆者が中尾都山に、宗悦のフホウヱをどうしてロツレチ式に変えられたかと尋ねたら、「指南の看板を出してまもなく、糸曲の合の手のこきざみになるところは、フホウヱでは、これを拍子をとって唱える時に、どうも舌がもつれるようになって困った。それで翌日教える個処は前夜のうちにロツレチに書きなおした」と語られたことがあった。(107-108頁)
(富森虚山著「明暗尺八通解」明暗虚山坊同友会・編集発行、昭和54年2月1日発行より)

 富森虚山に関して巻末の年表より抜粋すると、明治32年奈良県生れ。本名茂樹。10歳頃より父(竹号仙狂)から尺八の手解きを受ける。大正7年ころ藤田松調より免許皆伝。同10年、明暗35世(後に36世に訂正)小林紫山に入門。同15年、津野田露月長女教と結婚。冨山房に勤務、昭和27年、病を得て退職。昭和33年、小学館より「日本百科大辞典」編集主幹として招かれる。昭和41年、小学館退社。昭和50年5月29日脳血栓により逝去、享年77歳。
 「明暗尺八通解」は昭和43-44年頃にほぼ脱稿したが未刊に終わっていたのを、門人達が刊行に漕ぎつけた物である。住所は、小石川伝通院の門前辺り。先日行ってみたが更地の駐車場になっていた。


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