このシルエットを見ただけで誰だか分かりますかねぇ? 分かると困るんだが。
要諦は、虚無僧の古典本曲は音楽か否か、虚無僧尺八は楽器か否か、と言う事に尽きる。小生の立場は、虚無僧の吹く曲は宗教曲であり、手にする尺八は法器であると言う事。
ちょっと気になる事がある。現在、プロの尺八奏者は十指に余ると思うが、古典本曲をメインに活動されている方の中で調律菅でない地無管を吹かれている方は存在するのだろうか?
一人、河野玉水管を吹かれる方がおられるが、玉水管は吹きやすい地無管だと聞いている。
突然だがタイトルを変えた。これで、古典本曲を現代管(調律管)で吹く意味が無くなる。というか、逆に理由付けが必要になる。祭り囃子に篠笛は欠かせない。篠笛には「お囃子用」と「ドレミ笛」の2種類があるが、誰も「ドレミ笛」で祭囃子を吹こうとは思わないだろう。(近年は、少数派だが、ドレミ笛で祭囃子を教える団体も存在するようだ)能や歌舞伎でも構わない、横笛にドレミ笛を導入しようという動きでもあるのだろうか?
なぜ、一人尺八だけが調律管で古典本曲を吹くのだろうか? ここで荒木竹翁の登場だ。彼は調律管の先駆者でもある。「チ」の音律を3孔全開で正確に出るように尺八を「改良」した。明治初めに普化宗が廃宗となり、楽器としての生き残りを図ったのは致し方のない事だったろう。かくして三曲合奏に合致する楽器が出来上がった。彼の間違いは、改良した楽器で琴古流古典本曲を吹いた事にある。源雲界が罵詈雑言をもってして竹翁を批判したのも、この一点に関してである。調律管で三曲合奏する分には、何の文句も言わなかった。新興勢力である都山流に関しても、何の批判もしていない。都山流の「本曲」が新曲だったためだ。
かくして、明暗対山派を筆頭に、各地に僅かに残る古典本曲愛好家だけが、地無管の伝統を密かに死守している状況が続いている。