都山は幼少の頃宗悦流を稽古したが、別にきまった師匠につかず、その豊かな天分と努力によって都山流独自の流風をたてた。都山の語るところによれば、少年時代明暗真法流の尾崎真龍について大和、近江方面へ虚無僧托鉢したことも時々あったというから、都山の奏法には、宗悦の流風以外に、これらの影響もあったことと想像できる。
都山は初め宗悦系のフホウヱ符式であったが、教授の際に、譜を唱える便宜上、現行のロツレチ符式の表記に変えた(都山直談)。(41頁)
戦前筆者が中尾都山に、宗悦のフホウヱをどうしてロツレチ式に変えられたかと尋ねたら、「指南の看板を出してまもなく、糸曲の合の手のこきざみになるところは、フホウヱでは、これを拍子をとって唱える時に、どうも舌がもつれるようになって困った。それで翌日教える個処は前夜のうちにロツレチに書きなおした」と語られたことがあった。(107-108頁)
(富森虚山著「明暗尺八通解」明暗虚山坊同友会・編集発行、昭和54年2月1日発行より)
富森虚山に関して巻末の年表より抜粋すると、明治32年奈良県生れ。本名茂樹。10歳頃より父(竹号仙狂)から尺八の手解きを受ける。大正7年ころ藤田松調より免許皆伝。同10年、明暗35世(後に36世に訂正)小林紫山に入門。同15年、津野田露月長女教と結婚。冨山房に勤務、昭和27年、病を得て退職。昭和33年、小学館より「日本百科大辞典」編集主幹として招かれる。昭和41年、小学館退社。昭和50年5月29日脳血栓により逝去、享年77歳。
「明暗尺八通解」は昭和43-44年頃にほぼ脱稿したが未刊に終わっていたのを、門人達が刊行に漕ぎつけた物である。住所は、小石川伝通院の門前辺り。先日行ってみたが更地の駐車場になっていた。
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